崇徳天皇~すとくてんのう

崇徳天皇は平安後期の天皇です。幼い頃から父である鳥羽上皇より不遇な扱いを受け、謀略により立場を追われたうえに、保元の乱に敗れたのちは讃岐の地へと流され失意のうちに崩御されるという不運な生涯を送られました。

   

 

『保元物語』では、崇徳院は讃岐国で軟禁生活を送る間仏教に傾倒し極楽往生を願い、写経に専念する生活を送っていました。

 

戦死者の供養と反省の証にと完成した写本を京の寺に収めてほしいと朝廷に差し出しましたが、弟である後白河院は「呪詛が込められているのではないか」と疑い、写本を送り返します。

 

これに激しい怒りを覚えた崇徳院は、舌を噛み切り写本に「日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし民を皇となさん」「この経を魔道に回向(えこう)す」と血で書き込みました。

 

 

度重なる不当な扱いに対する怨念により、崩御されたのちは天狗の姿となって保元の乱にて自分を追い詰めた人物を祟り、京にて数々の災厄を引き起こしたとされております。

 

「神霊として祀るべきだ」との気運が高まり、精神的に追い詰められた後白河院も怨霊鎮魂のため保元の宣命を破却、更には蔑称とされた「讃岐院」の院号が「崇徳院」に改められる事となりました。

 

崇徳院が崩御された翌年の永万元年(1165年)讃岐国に流された際に参籠していた現在の金刀比羅宮に合祀されており、金刀比羅宮は神威を一層強めたとされております。

 

 

 

 また、和歌に秀でた風雅を愛する繊細な人物であったとされており、今なお百人一首に残る有名な歌を詠まれています。

 

「瀬を早(はや)み 岩にせかるる 滝川(たきがは)のわれても末(すゑ)に 逢はむとぞ思ふ」

 

(川瀬の流れは速く、岩にせき止められた急流は二つに分かれる。しかしまた1つとなるように、愛しいあの人と今は分かれていても、いつかはきっと再会しようと思っている)

 

『保元物語』とは逆に、和歌は境遇に於ける悲哀こそ含まれるものの誰かへの恨みなどを詠んだものは一つとして残されてはいないそうです。

 

 現在では人々が御自身の様な悲しい境遇にあう事の無い様、幸せな人々の良縁を妨げる全ての悪縁を断ち切る神様とされております。